どーしよーもないけど何とかなる

日々の恋愛、身体の事、コミュニケーション障害の事、美容の事などなど。その時の気分で書きなぐります!

暇女時代の終り?

「ここまでだったのかな…」

最近の暇女さんのブログを読んで、そう思った。私は、彼女が就活を終えた時に、初めて「暇な女子大生」の存在を知った。とても読み手を惹きつける文章で、流石、ラジオのハガキ職人時代を過ごしただけあるな…と思った。何をどう書いて、どう見せれば、注目してくれるか。そして笑いどころまでキチンと抑えていて、彼女は然るべき居場所で、その才能を発揮するのだろうな、と思った。

時代も時代だし、彼女にとってネット社会で生きる事も人生の選択肢の一つとして当然あると思う。私は、そう思い、彼女の活動を時々気が向いた時に更新記事を読む程度ではあるが、陰ながら応援していた。

最初は色々な大人の力によってプロデュースされていき、暇女のウリが大いに発揮されていたと思う。面白かったし、助走段階だな、と感じた。

けれどもここ最近、次第に彼女の記事や、彼女が携わったイベント内容をあまり見かけなくなった。

色々な所からお仕事を貰っている(受けている)様だけれども、一昔前ほど私の目には入ってこなくなった。恐らく、多忙を極めて仕事の質を落とさない様にする為に、活動量を少し減らしている状況かも知れない。

最近、彼女が大きな表立った活動をしているな、と思った仕事は私が知る限り津田塾大学のOG訪問会での講演会くらいか。その前後は全く目にしなかった。

久しぶりにはてぶを開くと、彼女の更新記事は「シン・ゴジラ」の鑑賞内容だった。彼女らしい毒々しい内容に、おもわず笑いながら読んでいた。※因みに私はゴジラに興味は無いし観たことも無いし、特に観る予定もない。

「現実逃避の為」とあったので、相当疲れていた中で映画をみて、そしてブログを書かれたのだな、と思ったのだけれども…どこか違和感を抱いた。

文章表現や言葉の使い方、赤入れが必要な所が散見していた。それまでの彼女のブログにもおかしな日本語が所々見受けられていたけれど、「まあ、所詮ネット社会での文章だし。」とあまり深く考えない様にしていた。

けれど、そうとも言っていられない状況なんじゃないか、と思う様になった。それは、「たかがネット記事」と思いながらプロブロガーさんの記事を読んでも正しい文章ではない物を読んでも質を落としてしまう。今まで彼女があらゆる面で許されていたのは、「女子大生」「大人達が好きなように調教出来る23歳以降」という事だった。

今、彼女は立派な大人である程度の基礎学力と教養は出していかないと読み手が「飽きてしまう」訳で、私は正直なところ少し「飽き」を感じていた。私がどういった所に飽きてしまったかと言うと、悪い意味で「学生時代の感性のまま」であるという事。あの毒々しい文章に笑ってしまったけれども、映画館での彼女のその姿を想像すると、ショックを受けた。哀愁漂う、廃れた拗らせてしまった若者。どこか鬱々とした雰囲気で、それを「バカ笑い」に変える位じゃないと、「拗らせた若者のグチ」になってしまう。

みずみずしい感性が、大人達に受けていた。学生たちにも共感を得ていた。読み手のターゲット層がどこに向かっているのか解らない内容だった。暇女さんが「永遠の23,24歳」で売り出すのであれば、それでいいと思う。

でも彼女も当然だが歳を重ねる訳で、それならばそれ相応にどう「現状維持が許される」スタンスでいられるのだろう。と考えた。

彼女の人となりをキチンと理解を示して、お給料も出して、マネージメントする。

だけれども、彼女の性格上、それは考えられない選択かも知れない。今まで周りの大人達が若い暇女さんにあやかり甘い汁を吸ってきた、そして無い袖は振れない大人達まで彼女を祭り上げる。彼女だって彼らに今後の仕事の方向性に期待したと思う。私はこのそれなりに面白いけれど「子どもみたいな大人」が沢山いてネット業界の風土の悪しき文化だと思っている。過去を振り返っても仕方がないけれど、今後はキチンと彼女も組織に所属する事も真面目に検討した方が良いと思う。

北条かやさんみたいにはならないとは思うけれど、正しい判断力を失うことは勿論だが、鬱々とした状況が続いて、文の質を現状維持は愚か低下してしまっては、それは暇女さんの価値を下げる事になるし、どこか悲しい。

フリーランスで働くという事は、何かを世に発表していないと「あいつ正直な所、何してる人なの?」になってしまう。これはみうらじゅん氏や井上陽水氏の言葉だけれども。

久々に目にした文章が、校正が必要レベルだと、内容以前の問題となってしまうし、印象としてもネガティブなものとなってしまう。ブクマした人が「しばらく見ないうちに文才がおちたな」と書いていた。私はまだまだ可能性のある彼女を思って悲しくなった。

同時に、ある意味彼女は人生の分岐点にきているのかな、と思った。